漁業
 
 見島の周りの海は大変豊かな漁場に恵まれていて、古くから盛んに漁業が行われてきた。「本村」の「浦地区」は漁業だけで生計を立てている。一本釣りや延縄漁(注1)、建網漁 (注2)、そしてあま漁など、季節季節に応じて幅広く漁をしている。土曜を除いて毎日午後4時頃になると、漁協の前でかけどり(注3)が行われる。漁師はもとより、農業専門の東、西地区の人でもサザエ、アワビを持ってくれば誰でも参加でき、サザエ等を漁協が買い取ってくれる。半農半漁の人が多い「宇津」では、マグロ釣りなどの一本釣り、あま漁、敷網漁をしている。マグロ釣りは、大きいものだと一匹が数十万円もするが、日によって捕れたり捕れなかったりするので収入が安定しにくい。生活に余裕がないと出来ない漁である。宇津の場合は、漁業の他に農業もしているので食べるのに困らないが、逆に浦地区は漁業だけで生活しているのであまりする人が少ない。
 浦地区と宇津の漁業の違いは今から100年以上前に出始めた。浦地区の昔の主な漁法は甘鯛延縄、アゴ網、ワカメ刈、あまの4種類だった。それぞれの漁法に応じて仲間を作り、大船頭、つまりリーダーを一人決めていた。それが、出漁の合図をしたり、仲買人と値の取り決めなどをしていた。従って大船頭は強い権力を保持し、村長以上であった。明治の終わり頃まで、大船頭の力は続いた。大船頭はもとより浦地区の漁師の権力も強かった。そして、共同で漁をしていたので、仲間同士の結びつきが強められていった。他の地区との結婚はあまりせず、浦地区内で結婚や養子縁組が多く行われた。その結果、浦地区の漁師の関係はより深まった。その仲間意識は、今でも浦地区の漁師に引き継がれている。宇津はもともと行政的には本村の地方(東、西地区)に属していて、農業を主にしていた。宇津で田んぼを最も多く持っている人でも、本村の最も少ない人に勝てなかった。これらからも分かるように、農業だけでは生活するのは厳しかったようだ。明治に入ってから、採藻を主にした漁業が営まれるようになった。農民は海藻を肥料にしたり、その海藻の中には食糧になるひじきやワカメなどが混じっており、またウニやアワビ、サザエの貝類も採っていた。宇津の人は藻類や貝類を生計の足しにしていたが、次第に一本釣りや網漁をするようになって、いわゆる半農半漁に転じていった。このようにして、浦地区と宇津は独自に発展していった。
 豊かな漁場に囲まれている見島だが、漁師さんからは魚が減ったとよく聞かれる。「昔は港を出るとね、じゃんじゃんと音がなるぐらい魚がおったんよ。でもね最近は魚がおらんね」と幸徳藤一さん(現在80歳)は語る。見島近海より、もっと豊かな漁場であるはずの沖合の海でも魚が減っている。魚の捕り過ぎが原因と考えられる。沖合の海は大変豊かな漁場が多いがゆえに、いろんな地域から船が来る。近くは山口県沿岸部、遠くは北海道や沖縄からも漁をしにくる。韓国の船も日本が条約を破棄するまで、近くによく来ていた。さらに、北海道や長崎からは大規模な船団は、底引き網であらゆる資源を捕っている。資源減少が漁師さんの意識にも少しずつ影響をもたらしている。「昔は漁がありよったから、きばりよったけどね。今は漁がないから、あまり気分がついていかんね」浦地区の漁師は語る。
 資源が減少してきたとともに、魚自体の値段も安くなってきている。値段が安くなってきた代表例としてトビウオがあげられる。今から35年ぐらい前はアゴ(トビウオ)が盛んに捕られ、干物にしたものを福岡などに大量に出荷していた。当時は福岡に炭鉱がたくさんあり、炭鉱労働者は塩気のものを好んでいた。干物の加工場も見島にあり、大変賑わっていた。しかし、やがて炭鉱が潰れていくに従って、干物のあごも売れなくなった。トビウオは今でもたくさんいるが、一匹が平均で25円か30円にしかならないのでほとんどやる人がいなくなった。他の大衆漁も少しずつ安くなっていった。「世の中が豊かになり始めた頃から、日本人はええ魚(甘鯛やハマチを指す)しか食わんようになっていったんよ。だからサザエなんかは、値段があがっていったんや」建網漁をしている小畑嘉道さんは語る。
 見島の漁獲高は昭和57年をピークに、今は3分の2に落ち込んでいる。原因としては資源減少が一番大きなウエートを占めているのだが、他に漁業従事者の高齢化も影響していると思われる。見島の漁業従事者の平均年齢は見島漁協(本村)で59歳、宇津漁協で58歳である。「漁協の青壮年部では、僕が若い部類にはいるからね」40代前半の曾根康夫さんは話す。後継者となるはずの20代30代がほとんどいない。30代でも数名しかいない。見島における漁業の現実は今まで述べたようにあまり明るくない。漁師をやっている親たちも、子供にわざわざ厳しい現実の中に入って欲しくないと考えている人が多い。しかし、その中で、このように考えている人もいる。「漁師で食っていけんというのは、うそだと思います。やる気をもってやれば、充分生活力はあると思います」と田口正英さん(宇津在住/「あま漁」の項目を参照)は語る。
 見島の漁師は年齢が離れても共通の思いがあるみたいだ。80歳で現役漁師の幸徳藤一さんは語る。「海は好きじゃのう。漁ちゅう商売は一番おもしろい」。そして、漁師で唯一の20代の佃輝樹君は、親、教師の反対を押し切り漁師になった。「浦(地区)が好きやからのう。漁師が好きなんや」。
 
 
一本釣り
 
 一本釣りは、甘鯛、ブリ、メバル、そしてマグロ、これ以外にも実に多くの魚が釣れる。同じ一本釣りでも魚の種類によって、えさの種類や重りのつけかたが違う。また同じ魚でもしかけが何種類かある。「甘鯛やったら甘鯛のしかけをして海の中に入れるやろ。そしたら、甘鯛が釣れちょるから不思議なもんよの。だから漁師はやめられへん」一本釣りで主に甘鯛を釣っている郷田一男さんは語る。
 一本釣りで使われる糸は何種類かある。一本釣りはマグロなどの大きな魚以外は、竿を使用しない。ブリ釣りの場合は針を20本か30本つけ、擬餌をつける。そして魚が釣れたら、昔は全行程を手で上げていたが、今は機械で巻き上げる。おもりが見えたら機械を止め、手で糸をあげていく。「ブリ釣りは手応えがあっておもしろいのう。大きなブリが一回に10匹も釣れるからな」と天野正直さんは語る。見島で昔から釣られているのが甘鯛である。甘鯛は「エビで鯛を釣る」と昔からいうように、えさはエビを使う。昔は生きたエビがよく使われていたが、最近では輸入のエビが多く使われている。朝5時ぐらいにでて、午後3時か4時に帰って来る。いいなぎであれば、6時ぐらいになるときもある。一年中、甘鯛は釣れるが、産卵時期には釣れなくなる。産卵時期には、甘鯛はえさを食べない習性がある。この現象を漁師の人達は「おーい、この頃はくずな(甘鯛)が口をとめちょるから、釣っても駄目ぞ」と言う。“口をとめる”というのは、魚がえさを食わないことである。郷田一男さんによれば、見島の人達は四代前以上からこの現象を知っていたという。
 マグロが回遊しだしたのが、ここ10年ぐらい前からである。最初、宇津の人がマグロ釣りを少しずつはじめ、最近では本村の中でも釣る人がでてきた。見島では竿でクロマグロを釣っているが、それは珍しい釣り方なので全国的に注目されている。竿で釣るようになる前は、手で糸を引き揚げていた。5年前まで手で漁をしていた吉村恒満さんは「大きいマグロを釣ろうと思うて、簡単に切れないナイロンを使うんよ。でも、大きいマグロがかかると、海に引きずり込まれそうになるんよ。丈夫なナイロン使っているので切れない。ほんで踏ん張るとね、今度はナイロンが手にからまったりするんね。よそでは、手がもげたり、引きずり込まれて命を落としたもんもおるんよ」。危険が伴うマグロ釣りだが、そこに魅力があるようだ。
 
 
あま漁
 
 見島の周囲2,000メートルの海は、見島の人しかあま漁ができないようになっている。見島の場合は「本村」と「宇津」に漁協が二つあるが、「見島は一つ」という意識から、どちらのあま漁師も自由に漁ができるようになっている。
 宇津の方は、採貝類の漁獲高が見島全体の3分の2を占めており、あま漁師は92人(6月現在)いる。宇津のあまは、半数は夫婦や親子二人で、あとは一人で潜っている。あま漁で捕るのは、アワビ・ウニ・サザエである。ウニは、赤ウニ・黒ウニ・バフンウニなど季節によって捕る種類が違う。夏の時期は6月10日から刺し身にして食べるアカウニ、バフンウニが捕れる。冬場にもクロウニが捕れるが、夏場のウニの種類のほうがおいしく値段がいい。解禁日の6月10日には感動的な光景が見られる。「あま漁の人達が全てね、朝9時に一斉に船で港を出ますからね、そりゃ見事ですよ」宇津漁協参事の山谷勝昭さんは話す。あま漁には二つのやり方があり、重りをつけて深く潜る人を「ふんどうあま」、比較的浅いところに潜る人を「おけあま」という。夫婦で潜っている山富純子さんは「私らは浅いとこだけ。沖に出ればよく捕れるんだけど、耳に圧がかかったり体に負担が大きいしね」。深く潜ることで有名な田口正英さんはこう語る。「一時期はね、深く潜ればもの凄くアワビがいて、30メーターぐらい潜りよったんですけどね。それ以上は限界があって潜らんのですよ。僕らも潜水病とか恐れとるんですよ」。
 次は田口正英さんのあま漁の日の行動である。「9時に出港して、漁場に着くのに10分かかる。それから支度して1時間か1時間半ぐらい潜ってまた上がりますいね。船の上でお茶飲んだり、たばこ吸ったりして、まあ午後1時前後に昼ご飯食べらあね。あとは3時まで潜るんですよ。港に帰ってから、5時とか6時までウニの身をだす仕事があるんですよ。」
 現在あま漁は、漁をする時間を朝9時から夕方3時までと決めている。土曜日曜に加えて水曜も禁漁日になっている。これは資源減少に歯止めをかけるために漁協が作った規則である。「昔はたくさんのウニで海底が真っ黒でね、足が下ろされんぐらいやったんよ。今はね、探しても探してもおらんって感じ。それだけ絶やしてもうたのは、ウエットスーツ(注4)だと思うよ」と山富純子さんは語る。昔から宇津では夏だけ、手拭いをふんどしがわりに腰に巻いて潜っていた。その当時は男の海士(注5)が10人程度しか潜っていなかった。見島の沖合では韓国の女性がスーツを着て潜っていた。その中には潜水病にかかっている人が見かけられた。だから見島の人々にとって潜水病は、スーツがもたらしていると思いこんでいた。しかし、当時の宇津漁協参事の田中信雄さんらが漁業発展にはスーツが必要だと考え、宇津の10区の人たちを交えてスーツの勉強を始めた。昭和35年11月に10区の若者たちが、初めてスーツを着て潜った。「恐る恐る水の中に足を突っ込んでみたんですよ。海の中に全身を入れると、スーツの中に海水が入るんですが、意外と体が暖かくてね」と山富正助さん(宇津在住)。次の年の昭和36年からスーツ導入が始まった。その頃はあま漁に対する規制が無かったので、冬場や夏場でも長く潜れるようになり、女の人たちも含めて大勢の人たちが潜るようになった。昭和48年には、世間はオイルショックで沈滞気味だったが、宇津はあま漁のおかげで好景気に沸いていた。一つの船で1カ月に約70万円(現在の貨幣価値で200万円程度)の収入があった。この時期をピークに、以後だんだんと資源が減少していった。
 あま漁は宇津の10区を中心に盛んに行われているが、他の地区に比べて、60代後半以降の老人が極端に少ない。あま漁は体力消耗が激しく、かなりの疲労が体に蓄積されやすい。さらに、深く潜れば潜るほど水圧が高くなり、心臓や脳に大きなダメージを与える。結果、長く生きている人が少なくなっている。
 さらに、後継者不足がかなり深刻である。「後継者がいないと、自分たちがやってきた歴史を伝えることができんでしょう」と山富純子さん。現実は苦しいのだが、海を、そして漁を愛する人は多い。「最初は漁業は好きじゃなっかったんですよ。でもね、やるうちにのめりこんで、漁業が好きになったんですよ。もう漁業以外は何もやるまいと思うちょります」と田口正英さんは語る。
 
 
(注1) 建網:見島では建網漁で主にサザエを捕っている。午後3時に網をしかけ、翌朝5時にその網を引き上げる。サザエでは高さ4.2メートルの網を使うが、魚の種類によっては12メートルの高さのものを使うこともある。
(注2) 延縄:文字どおり縄を使った漁である。主に甘鯛を釣る。一本が600メートルのながのう(縄)に針が100本あり、それに1センチ×2センチのイカをつける。昔は見島特産の鬼イカを使っていたが、最近は輸入物を使う。見島ではながのうを3本つなげて漁をする。まだ暗い時間から出港し、日が出始めたら、ながのうを海の中に沈めていく。全て入れ終わったら、最初の場所に戻り5分ぐらい休憩して、すぐに縄捕りという機械で上げ始める。3つのながのうを上げるのに45分かかる。それを一日で3、4回繰り返す。
(注3) かけどり:漁協がサザエ、アワビをキロ単位で買う行為のこと。サザエは1キロ470円。
(注4) ウエットスーツ:潜水服。見島では、スーツを着ると全身真っ黒で目の回りだけ白いことから「だっこちゃん」と呼ばれている。
(注5) 海士:男のあまのことを海士、女のあまを海女と書く。
【文・岡本和大】
 

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