2002年 第9回HAGI世界映画芸術祭
映画人の顕彰(展示部門)
関連企画:K2副隊長・原田達也の「山岳スケッチ原画」展
第9回HAGI映画芸術祭では特別企画として「映画人の顕彰」を実施します。今回は萩出身の映画監督:門田龍太郎を掘り起こします。取り組みは門田監督の映画作品代表作の上映2本、上映します映画作品の関係資料の展示、監督に関わる資料の展示等を通じて紹介します。 |
■ | 山岳スケッチ原画展(映画人の顕彰・関連企画)
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■ | 原田達也と作品について
原田達也(ハラダ タツヤ)1935〜1997。 |
原田達也の略歴 | |
1935年(昭和10年) | 北海道帯広に生まれる。 |
1954年(昭和29年) | 帯広三条高等学枚卒業。京都学芸大学特修美術科人学。 入学と同時に山岳部に入部。主として南アルプス、北アルプスで山行 を行なう。 |
1958年(昭和33年) | 京都学芸大学(現、京都教育大学)特修美術科卒業。 |
1967年(昭和42年) | 山岳部時代の仲間、土森譲、橋本和生、高野和夫、尾瀬歳和、掘池将 夫、檜谷暁一氏等七名と、「アジア・中近東辺地移動調査隊」を組織 し、単車四台とワンボックスカー一台で神戸から出航、インド、パキ スタン、アフガニスタン、イラン、イラク、ヨルダン、シリア、レバ ノン、トルコ、ギリシア、イタリア、フランス、ベルギー、ドイツ、 デンマーク、スウェーデン、オーストリア、と走破し、途中パキスタ ン・スワートにて登山活動を行なう。 報告書「山と砂漠と子供達」 |
1971年(昭和46年) | 京都カラコルムクラブのパキスタン・カラコルムのマルビティン峰(7453メートル)登山隊に副隊長として参加。雪崩によるポーター死亡 事故で撤退。 |
1974年(昭和49年) | 山岳部時代の仲間、土森譲氏と二人でパキスタン・西部カラコルムのカンピレ・ディオール峰(7143メートル)の偵察(翌年、京都カラ コルムクラブが遠征を予定していた) |
1977年(昭和52年) | (社)日本山岳協会の日本K2登山隊(8611メートル)に副隊長として参加。5200メートルのベースキャンプで登攀の指揮をとる。 報告書「白き氷河の果てに」その他多数。TV 「K2登頂106日の 群像」毎日放送。映画及びビデオ「白き氷河の果てに」など。 |
1981年(昭和56年) | (社)日本山岳協会の日中友好チョゴリ峰(K2)登山隊の偵察に参 加。戦後初めての外国人として地図の空白部に入る。 |
1982年(昭和57年) | (社)日本山岳協会の日中友好チョゴリ峰(K2)登山隊の支援隊々 長としてベースキャンプまでの輸送を担当する。 報告書「喬戈里峰登頂記」「チョゴリ(K2)への道」 |
1984年(昭和59年) | 1967年の仲間、土森譲、橋本和生、高野和夫、尾瀬歳和、堀池将 夫氏等六名とパキスタン・カラコルムのヒスバー氷河からヒスバー・パス(5151メートル)を越えてビアホー氷河を縦断する。 |
1992年(平成4年) | 神奈川ヒマラヤ登山隊のパキスタン・カラコルムのスパンティーク登山隊に参加。57歳で7027メートルの頂上に立つ。 報告書「スパンティーク全員登頂」「そしてみんな登った」 |
1995年(平成7年) | ヤング、ミドル、シルバータートル隊(YMS-T)のチベット、シシャパンマ峰登山隊に参加。60歳で8008メートルの中央峰に登頂。 報告書「シシャパンマ」 |
1997年(平成9年) | 8月20日、パキスタン・カラコルムのスキルアルム峰(7360メー トル)で爆風雪崩により死亡。 安曇野山岳美術館にて常設展示中 |