2002年 第9回HAGI世界映画芸術祭

映画人の顕彰(展示部門)

関連企画:K2副隊長・原田達也の「山岳スケッチ原画」展

 第9回HAGI映画芸術祭では特別企画として「映画人の顕彰」を実施します。今回は萩出身の映画監督:門田龍太郎を掘り起こします。取り組みは門田監督の映画作品代表作の上映2本、上映します映画作品の関係資料の展示、監督に関わる資料の展示等を通じて紹介します。
 また本祭開催趣旨は基より、今回の映画人顕彰を充実するために、門田監督の映画作品に登場し、門田監督とも親交が厚かった、K2会事務局の原田達也氏が描いた「山岳スケッチ原画」を特別展示します。門田監督がドキュメンタリー映画を通じて描く人間模様のテーマの一面に触れることのできる機会として、関連企画「山岳スケッチ原画」を実施します(協力:萩市立図書館)。

山岳スケッチ原画展(映画人の顕彰・関連企画)
  1. 展示期間と会場/展示期間を分けニ会場で行います。萩市立図書館・萩市民館小ホール
    図 書 館 /期 間 8月 6日(火) 〜 14日(木) 8日間/12日(火)休館日
    市民館小ホール/期 間 8月16日(金) 〜 18日(日) 3日間/映画祭会場
  2. 会 場 萩市立図書館(萩市江向552-2 電話0838-25-6355)
    萩市民館(萩市江向495-4 電話0838-25-1234)
  3. 入場料無料(両会場共、無料)
  4. 作品展示数 40点(水彩画/大きさ:B5版サイズ)/特別協力:原田真知子(大和市)
  5. 問合せ先/HAGI世界映画芸術祭実行委員会事務局
    〒758-8555 萩市江向510 萩市総務部企画課内
    電話0838-25-3131 (内線408) FAX0838-26-0850
    直通電話:0838-26-6872(FAX兼)

原田達也と作品について

原田達也(ハラダ タツヤ)1935〜1997。
 大学入学と同時に山岳部に入部。以後、山岳調査等も含む登山活動から登山入門指導等を終生活 発に行う。あわせて得意な絵をいかし登山を通じて出合った風景、事物を描き続けた。
 日本が初登頂となる1977年のK2登山(8,611m)の副隊長として活躍する姿は、門田監督作品の「白き氷河の果てに」でも知ることが出来る。登頂翌年より、特別編成されたK2登山隊の交流を広げ る事務局として20年間関わってきたが、K2会20周年記念登山で1997年8月20日爆風雪崩に より死亡、パキスタン・カラコルムに眠る。
 今回の作品は、国内登山で出合った風景から海外登山での民族の風習、山々等、山と渓谷社の 月刊誌で、また全国紙、地方紙の新聞でも原田達也エッセイと一緒に広く紹介された作品を展示 します。

原田達也の略歴
1935年(昭和10年) 北海道帯広に生まれる。
1954年(昭和29年) 帯広三条高等学枚卒業。京都学芸大学特修美術科人学。
入学と同時に山岳部に入部。主として南アルプス、北アルプスで山行 を行なう。
1958年(昭和33年) 京都学芸大学(現、京都教育大学)特修美術科卒業。
1967年(昭和42年) 山岳部時代の仲間、土森譲、橋本和生、高野和夫、尾瀬歳和、掘池将 夫、檜谷暁一氏等七名と、「アジア・中近東辺地移動調査隊」を組織 し、単車四台とワンボックスカー一台で神戸から出航、インド、パキ スタン、アフガニスタン、イラン、イラク、ヨルダン、シリア、レバ ノン、トルコ、ギリシア、イタリア、フランス、ベルギー、ドイツ、 デンマーク、スウェーデン、オーストリア、と走破し、途中パキスタ ン・スワートにて登山活動を行なう。
報告書「山と砂漠と子供達」
1971年(昭和46年) 京都カラコルムクラブのパキスタン・カラコルムのマルビティン峰(7453メートル)登山隊に副隊長として参加。雪崩によるポーター死亡 事故で撤退。
1974年(昭和49年) 山岳部時代の仲間、土森譲氏と二人でパキスタン・西部カラコルムのカンピレ・ディオール峰(7143メートル)の偵察(翌年、京都カラ コルムクラブが遠征を予定していた)
1977年(昭和52年) (社)日本山岳協会の日本K2登山隊(8611メートル)に副隊長として参加。5200メートルのベースキャンプで登攀の指揮をとる。
報告書「白き氷河の果てに」その他多数。TV 「K2登頂106日の 群像」毎日放送。映画及びビデオ「白き氷河の果てに」など。
1981年(昭和56年) (社)日本山岳協会の日中友好チョゴリ峰(K2)登山隊の偵察に参 加。戦後初めての外国人として地図の空白部に入る。
1982年(昭和57年) (社)日本山岳協会の日中友好チョゴリ峰(K2)登山隊の支援隊々 長としてベースキャンプまでの輸送を担当する。
報告書「喬戈里峰登頂記」「チョゴリ(K2)への道」
1984年(昭和59年) 1967年の仲間、土森譲、橋本和生、高野和夫、尾瀬歳和、堀池将 夫氏等六名とパキスタン・カラコルムのヒスバー氷河からヒスバー・パス(5151メートル)を越えてビアホー氷河を縦断する。
1992年(平成4年) 神奈川ヒマラヤ登山隊のパキスタン・カラコルムのスパンティーク登山隊に参加。57歳で7027メートルの頂上に立つ。
報告書「スパンティーク全員登頂」「そしてみんな登った」
1995年(平成7年) ヤング、ミドル、シルバータートル隊(YMS-T)のチベット、シシャパンマ峰登山隊に参加。60歳で8008メートルの中央峰に登頂。
報告書「シシャパンマ」
1997年(平成9年) 8月20日、パキスタン・カラコルムのスキルアルム峰(7360メー トル)で爆風雪崩により死亡。
安曇野山岳美術館にて常設展示中

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