「CINEMA塾」テキスト  
 
共同負債
 
明治元年から17年まで
 
 共同負債とは、明治18年から44年の間に島民が共同で返済した現在の25億円に相当する巨額の負債のことである。明治という時代背景と当時の見島が抱えていた様々な問題が複雑に絡み合って発生したこの負債の歴史は、今も多くの教訓を島の人々に伝えている。
 明治維新によって住所移転や職業選択の制限から解放された人々は、その自由な空気の中で享楽的な浪費と押し寄せる新時代の波によって正しい方向性を失いつつあった。それは当時の日本全国で見られた光景であり、見島も決して例外ではなかった。
 明治7年から17年の間、見島では連年あるいは隔年に旱ばつや風水害が続き、米はもとより大豆や小豆や薩摩芋といった農産物まで大きな被害を受けた。しかし、その一方で島民はこれまでの生活を改めて倹約や節約をすることもなく、衣服をはじめ、酒、木炭、食器、雑貨などを萩から頻繁に購入していたという。なぜ不作にもかかわらずそういう贅沢ができたのかと言うと、当時の習慣として物を購入するときにいちいち現金を支払う必要はなく、掛け買い、つまり「つけ」で物を購入し、農産物を販売して収入があった時に全額支払うのが一般的だったことがあげられる。当然そこでは金銭に対する感覚が希薄となり、島民は不作を理由に支払いを先延ばしにしてもらいながらも以前と変わらず物を購入していた。その結果未払い金がどんどん膨れあがり、最終的には自分で自分の首を絞めることとなっていったのだ。しかし、それ以上に農民を借金へと駆り立てたのは明治6年の地租(注1)改正である。それまでのいわゆる藩政時代には、見島はもとより全国の農村では現物経済が主体をなしていた。年貢を納めるのも、地主へ小作料を納めるのも全て米であったし、物を売買しても現金を使用することはほとんどなく、たいていは物々交換であった。それが明治になると租税は現金で納めなければならなくなったのだが、その当時の島内の現金流通高は極めて少なかった。しかも、地租改正が行なわれた明治6年頃から旱ばつや風水害が続いて農産物の収穫はほとんどない、つまり島外へ売り出すものがほとんどないにもかかわらず税金は現金で納めることを要求され、農民はその工面のために島内の金持ちからこれを借りたのだ。しかし、借金を申し込む農民が予想外に多かったため、やがて島の金持ちは島外の金貸しから金を借りてそれを島の農民に貸すという「又貸し」をするようになった。当時、島の農民で金を借りているものは半数にも満たなかったが、それ以外の人々もたいてい誰かの保証人になっている。この保証人を加えると借金返済の責任を持っているものは島民の大多数を占め、この時点で借金返済の責任がないのは地主など二、三の家と「浦地区」に住む漁民(注2)だけであった。
 その頃、天候による不作に加えて全国的な米価の下落が農民たちを襲い、借金の返済どころか日々の生活にさえ困るようになっていた。そしてとうとう島外の金貸しが、又貸しをしていた島内の金持ちを山口県に訴えたのである。しかし、金を実際に借りている農民が返済できないような状況で、又貸しをしていた島内の金持ちが島外の金貸しに返済する金などあるはずがない。その結果、事態を重く見た県は明治17年の9月に大書記官・近藤幸正を見島に派遣して島民と協議を行った末、借金に関係のない二、三の家と浦地区の漁民を除いた島内の農家全てが支払いの責任をとるという結論になった。共同負債の歴史は、この時から始まったのである。
 
 
明治18年から44年まで
 
 明治18年の2月、見島では前年の県との協議結果を受け、島内全ての田畑を担保にして銀行から6年の期限で金を借り入れ、さらに萩の久保田庄治郎から一時借りたお金と負債者一同の積立金を加えて、それまで島外の多くの金貸しから借りていたお金をとりあえず全額返済した。しかし、一言に負債者といってもそのほとんどは直接金を借りておらず、連帯保証人となったために返済を余儀なくされた人々ばかりである。やがて「自分が金を借りてないのになんで払う必要があるのか」という考えが島民の間に広がり、その後の銀行等への返済は不作を理由にかなりいいかげんなものとなっていった。それからは借金の返済期日が迫るたびにまた別の金貸しから金を借りて返済する、という泥沼が幾度となく繰り返され、利子を加えた借金総額は雪だるま式に増えていった。そんな見島の窮状を見るに見かねた県はなんとかして見島を再生させるべく、他の村で借財返済の実績がある厚東毅一郡書記を明治32年に共同負債返済の責任者として島へ派遣した。「それまでにも共同負債の監督責任者として郡書記はいたんですが、きちんとした返済指導はやってないんです。厚東さんが来てから本腰にやりだしたんですよ。だから、厚東さんが来て強力に指導してなかったら、絶対に返済はできてなかったと思いますよ」(長谷川忠也さん/本村在住)という言葉どおり、厚東書記は島へ渡るとさっそく責任者を集めて節倹条目(注3)という厳しい掟を定めるとともに、これまでに破産した者以外は所有している田畑の地価に応じて借金を負担させることにした。その結果、これまで14年かかっても返せなかった莫大な借金を、12年後の明治44年には全額返済することができたのである。しかし、その12年間の島民の苦しみは並大抵のもではなく、当時の様子は現在も語り継がれている。「うちの主人がよく話してましたけど、主人は明治35年に生まれましたから一番苦しかった時期を経験しているんですよね。たとえばお米を洗ったら白い磨ぎ汁ができるでしょう。その汁を練って、煮て、食べたって言うの」(弘中ミネさん/現在83歳。本村在住。)「私の家も連帯責任者でしたからね、明治30年頃で毎年500円(当時の500円は現在の約1,000万円に相当する)以上返済してました。家が建つ金額です。代用教員の月給が7円(注4)の時代ですからね」(長谷川忠也さん)この他にも見島の農家では共同負債に関する様々な話が伝わっており、ここで紹介したのはほんの一部に過ぎない。
 当時の見島を今に伝える「共同一致の歌」は、共同負債のような無知から来る悲劇を二度と繰り返させないために作られたという。その歌を作詞した人物が自身の祖父にあたる多田守邦さん(24ページ参照)はこう語る。「共同負債の苦しみを、見島の人々の気持ちに今も生きさせないといけない。あれは絶対に忘れちゃいかん。こういうことがあったんだぞということを、この先も伝えていかなければと思っています」。
 
(注1) 地租:旧法で土地に対して課した収益税のこと。
(注2) 漁民たちが借金をせずに済んだ理由として以下のことが考えられる。農業と比較して旱ばつや風水害などの影響をさほど受けなかったこと。農作物と比較して海産物は保存が難しいため、漁業集落では魚が捕れたらすぐに現金に変える必要性があって昔から貨幣経済が発達していたこと。これは、農民と違って漁民が比較的容易に船で島外へ行くことができたのと関係している。農民を苦しめた地租とは土地にたいして課せられた税金のことであり、田畑を持たない漁民はそのぶん経済的な負担が少なかったこと。
(注3) 節倹条目:全部で23条あり、そこには酒・旅行・贈答品・派手な衣服・盆踊り・祭り等の禁止が明記されている。その他にも、借金の返済を最優先するために様々な制約が島民に課せられている。
(注4) 現在の代用教員の給料を14万円だとすると、当時の1円は現在の2万円に相当する金額である。なお、文中の『現在の〜円に相当する』という表現は、これを参考に換算している。
【文・末武和之】

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