「CINEMA塾」テキスト  
 
見島の人々
 
 見島は、萩市の北北西45kmの沖合にある、面積7.85km3の日本海の離島である。面積の狭少な割合にかなりの起伏があり、「本村」と「宇津」という二つの集落に、現在1,292名の人々が暮らしている。
 本村は、島の南端に位置する集落で、島の総戸数451戸のうち341戸が密集し、人口にすると、総人口1,292名のうち857名が居住している。萩市役所見島支所、郵便局、診療所、警察官駐在所、小学校、中学校、保育園、農協、漁協などがこの地区にあることから、島の中枢をなしているといえる。
 一方、宇津は、島の北東部にあり、109戸、321名が暮らしている。昭和24年に見島漁協から分離独立した、宇津漁協などがある。
 以下、歴史的に見た各集落の特徴を比較しながら、それぞれの集落の人間模様を垣間みていくことにしたい。
 
 
本村の人々
 
 「本村」は、漁業集落の「浦区」と、農業集落の「東区」、「西区」に分かれている。
 見島で、漁師という時には、その歴史は浦区からはじまっていることを、まず念頭において欲しい。なぜならば漁師としての誇りを持つ浦の人々は、漁を行う際の人間関係を、陸の上での日常生活にまで持ち込んだ暮らしをしてきたからである。その社会構造は、明治の終わり頃まで、「大船頭」と呼ばれる人たちを中心に動いていた。
 大船頭は、漁撈形態により形成されたグループを統率していくリーダー的な存在で、船持の仲間から年長者が選挙で選ばれていた(任期は2年)。彼らは、一般の行事や集会の場で決定権を握るばかりでなく、魚の販売などにおいても仲買人との交渉を取りまとめ、価格を決めていた。また、その売上高から一分の分金をとり、それを祭りの費用にあてるなどして、組織を運営していた(注1)。
 大船頭を中心とした人間関係が浦の人々には大切だったのだろう。そのために浦区の人々は、東区・西区の人々より信仰心が厚く、結束も固いようだ。さらに、浦の社会生活の成り立ちをを考える上で、もう一つ「若者組」という集団があったことも忘れてはならない。若者組は、15歳から25歳までの青年仲間で構成されるもので、24〜25歳の者が頭をつとめ、盆踊りや神社の行事の世話を行っていた。浦の青年たちは、その団体に所属し、グループ活動を通して兄弟分とのつきあいを重ね、村人として成長していったのだという。
 一方、農業集落の東区・西区の祖先は、本来百姓ではなかった武士や流人(注2)が帰農してできた集落であるため、家筋や家柄が尊ばれる傾向が強いようだ。
 では、実際に、浦区の漁師たちと、東区・西区の農民たちは、どのような付き合いをしていたのか、彼らの歴史をさかのぼりみてみるとしよう(注3)。
 例えば、家の屋根が草葺であった頃は、浦の者は屋根の茅を東区・西区の農夫に求めなければならなかった。田畑の畔に防風垣として植えられているオニガヤは隔年ごとに刈られるが、これを屋根葺の材料にするからである。その材料をもらうばかりでなく、屋根もたのんで葺いてもらう。浦の人間は百姓の経験を持たないから、荷をかつぐ力もなく、お願いするしかなかったのである。
 一方、東区・西区の農業集落で婚礼があるときには、それに必要な魚類は、浦の者に頼んでいた。ほぼ同じ大きさのタイを40匹も50匹も集めるのは骨の折れることで、そんな時には浦の漁師に頼んでおかねばならなかった。
 浦の者も、米や野菜やその他の食料を東区・西区の農夫から分けてもらうためには、親しく付き合う家を持っていなければならなかった。こういう特定の家と家のつきあいは親類つきあいに準じていて、子供の誕生祝いや、結婚の前祝い、盆、正月、祭りなどの時に、東区・西区の親しい者を招いたりしていた。しかし、仕事の上で助け合うことはなかったようだ。
 また、浦区と東区・西区の家に対する考え方の違いも興味深い。浦方の漁師達は、明治から大正にかけて、頻繁に漁船を売買していた。生活が苦しくなると大きい船を売って小さい船を買い、さらにお金に困ると、その船も売って、他の船の水夫になる。そして、収入が入った時に、売りに出た船を買うという具合であった。それと同じように、住居にこだわりを持つことはなく、経済状況に応じて船を買い替えるように、彼らは家の盛衰とともに住まいを転々と移したという。一方、東区・西区の農民たちは、代々の家柄を重要視していた。
 同じ本村の中に相接する二つの集落は、職業の違いからか、浦区の人々は概して派手なところがあり、東区・西区の人々は内向的で地味であるという、生活感情や生活態度の違いがあるようだと指摘する人が多い。
 実際に、それらの集落の境では、雨が降った日に交わされる挨拶も違うという話がある。農業集落である東区・西区で「よい雨ですね」と言えたとしても、浦区の人には、そんな挨拶はできない。なぜなら、雨が降っていては、漁に出れない。つまり、そのことは、稼ぎがないことを意味するからである。
 
 
宇津の人々
 
 上記のように、本村に浦区と東区・西区の違いがあるのに対して、「宇津」にはそれがない。そのために、宇津の人々は、団結心が強いといわれている。
宇津の人々は、もともとは農業を主にした生活を営んでいたようだ。海藻を肥料に農業を行っていたために、採藻権は農民にあり、明治の初め頃には、宇津の人々はヒジキ・カジメ・ワカメ・ノリ・アマノリ・テングサのように食料になる海藻をとっていた。またアワビ・ウニ・サザエなどの貝類をとることも許されていたので、そういうものもとって生計のたしにしていた。その後、次第に網漁や釣漁も行うようになって、いわゆる半農半漁に転じてきた。したがって、本村の東区・西区とも、また浦区とも違った性格の集落として成り立ってきたのである。
 そもそも、宇津には、近世初期までは、人が住んでいなかったと言われている。宇津の海岸に人が住み始めたのは、見島で二大勢力だった長富氏と山田氏が戦ったのちに、長富氏が敗れ、宇津に移ってきてからのことだとされている。そして、居住者が増えてきたのは、廻船が風待ちのために宇津へ寄港するようになってからのことである。明治初期には、北前船の寄港で活気にあふれていた様子だ。宇津は、単なる農村としてではなく、海とも深い関係を持ちつつ発展してきたのである。
 また、敗戦後、見島にアメリカ軍が進駐することになったときに、「パンパン」と呼ばれる売春婦たちが兵士とともに見島にやって来て、その女たちは民家に部屋を間借りして暮らすこととなった。そこで、宇津の人々は、彼女たちを受け入れ、部屋を貸すことにした。風紀問題を問題にするよりも、金銭収入の上がる方が、戦後貧しい生活を余儀なくされていた宇津の人にとっては大きな問題だったからである。そして、「パンパン」たちを迎えるために、部屋を改造して、ベニヤ板で仕切り、ドアで密閉ができる部屋を作った。宇津の人々は、かつて彼らの生活にはなかったベットをその部屋に置き、「パンパン」たちに部屋を貸したのである(詳しくは「基地と人々の生活・米軍と見島の人々」を参照)。
 その後、昭和36年の潜水服の導入により、宇津の人々の生活は大きく変わったといわれている。専門の海士たちが裸で潜っていた時代から、潜水服を着用することで、寒い時期でも、長時間潜ることが可能になり、このころから、宇津の漁業収入は増加している。
 また、本村の人々との関係については、宇津のある漁師がこんな話を聞かせてくれた。「昔、魚釣りで沖にでて、浦の漁師に出くわすと、『百姓が何を沖に出てやってる。向こうに行けー』って言われていたんよ。だから昔は、本村と宇津の人間は仲が悪かったよ。運動会では、4つの集落に分かれて、リレーがあるんやけど、絶対にうちんとこの集落(宇津)と、本村の集落がけんかしよった。宇津の人が本村の人の頭をビール瓶で殴って、血まみれになって病院に運ばれたり。とにかく、けんかするのが一つの楽しみみたいなところがあったから。今ではもう昔話だけどね」と、笑いながら話した。
 また、宇津に50年暮らす漁師の吉村恒満さんは、宇津地区の人間関係の深さについて、「この集落では、昔から、みんなが兄弟同然の付き合いをしよったんよ。隣近所に出かけていって、米が無いからちょっと貸せとか、お金がちょっと足らんから隣に行って借りてこい、って言ったりね。ほんとうにみんなが兄弟のようやったよ。それも本村に3つの集落があるのと違って、宇津には一つの集落しかないから、うちらは結束が固いんじゃろうね」と語った。
 
(注1) 明治末期にできた漁業組合が大きな勢力を持って魚の販売なども一手に引き受けるようになったことや、大船頭による集団操業も行われなくなったことで、大船頭の権限は著しく弱められ、以降は祭りの世話だけを行うようになるのである。
(注2) 見島にも流人がいたが、島の人たちは流人を罪人扱いにはしていなかったようである。なかには学才のある者もいて、島の娘と結婚もしている。もちろん、刑期を終えると故郷へ帰ったであろうが、島で生涯を終える者もあったという。
(注3) 見島総合学術調査報告(昭和39年/山口県教育委員会発行)を参考。
【文・田中美和子】

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