「CINEMA塾」第1回作品

映画タイトル書
題字:三輪龍作

製作:HAGI世界映画芸術祭実行委員会/演出:「CINEMA塾」+原一男
16ミリ/カラー/スタンダード/100分/1999年度作品

予告編

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 1998年「CINEMA塾」夏期集中萩合宿で映画撮影現場を立ち上げたが、素人塾生達による現場は僅か9日間。無謀とも思われたこの現場は、先陣隊を含む7月26日に始まり8月22日に終了した。全てが限られた時間の中で、塾生自ら見島島民と関係をつくりながら撮影は行われた。
そして1999年夏・・・、その映画は「CINEMA塾」第1回作品として完成をみた。

はじめに 原一男監督
 ドキュメンタリー映画は、「世界のなかにあらわれた新しいものを示すもっとも効果的な手段であり、輝かしい未来への人類の道を映像において写し出す素晴らしい手段。」として語られてきた。……時には野心的になって、ドキュメンタリー映画の占める領域、守備範囲はどこまでかという大論陣をはる。……そんな狭い枠の中で考えないで、何のためにその映画をつくるのかという確信が、ドキュメンタリー映画の中で一番大事なものだといえるとも……。
 映画100年を迎えた時代、映画の定義に新しい論議が交わされている。「ドキュメンタリーとフィクション、そのリアリティー」がそうだ。同時に、客観的な事実を有りのままに伝えるものとされてきたドキュメンタリー映画においては、その定義は過去のものとなりつつあると、今世界で言われてさえいる。
 その中1995年、新しい時代の、新しい映画人「活動屋」を育成する目的の「CINEMA塾」が第2回HAGI世界映画芸術祭で誕生した。塾長は、日本のドキュメンタリー映画を代表する原一男。彼は言う「今、日本映画は低迷していると、それは日本国自身が低迷している事だと。」また、「60年代、70年代のエネルギーを持つ活動屋魂を引く継ぐ映画人を。我々が学んだことを伝えたい」と、塾開講時に語った。塾の課題は、日本の根底にある共同体意識を考察しながら映画における「ドキュメンタリーとフィクション」であった。その後96年「プロデューサー論、演出論」、97年「助監督論」をメインに取り組み、そのテーマを実践する映画制作に98年、山口県萩市沖45キロに浮かぶ見島で取り組んだのだ。

■制作現場から
<「CINEMA塾」塾長コメント>
…98年、暑かった夏、全国から集まった塾生たちが見島で合宿しながら、島の人たちと出会い、話を伺い、関係を作り、撮影をさせていただいた。そして作り上げたのが『わたしの見島』である。
 言うまでもなく、塾生たちは、映画作りに関してはズブの素人である。映画作りとはどんなものか、という興味で集まった素人たちが、見島で生きる生身の人たちを相手に、島で生きていく意味を探り、そのことで、他ならぬ塾生たち自身が、己の生き方を振り返ってみようという契機になれば、というのが塾長である私の狙いであった。
 「人は、一人では生きられない」=被写体である人たちが抱えている家族や村落という共同体の問題と、「映画は一人ではできない」=個人だけの力量だけでは映画作りは成立しない、というカメラの前と後ろ側の、それぞれの問題を、まさに活きた現場で、体で知っていこうという趣旨であるが、この作業は決して容易ではなかった。
 私は、集まった塾生たちに、こう言った。ここに来たのは、苦しむためにきたと思えよ、と。自分の持ってる力の150パーセント、いや200パーセントのエネルギーをかけて取り組めよ、とも。
 素人たちが取り組んだのだから、作品としては未熟でも、彼らの努力を汲んでやって欲しい、とは言いたくない。完成すれば、作品の出来が全てだよ、と塾生たちを叱咤激励し続けた。それでもミスや甘い判断をする塾生たちを怒鳴りつける私の顔が“鬼気迫るものがあったよ”と、応援に駆けつけた友人が評したくらいだ。本当にきつい作業だったのである。
 かくして塾生たちと私が組んだ第1回作品が完成した。欠点が色々あるのは百も承知だが、まずは世の評判にさらされよう。そして次のステップに踏み出したいのだ。
「CINEMA塾」塾長原一男

■解 説 〜映画ラッシュ仕上げ試写より〜 盆踊り
 この作品の取り組み当初、仮称「見島の人々」で進められた。その名の如く、登場、映し出される人物は赤ちゃんから幼児、小学生、中学生、成人式を迎えた青年、そしてお年寄りまで。また島の生活と営みを描き出す、農業者、漁業者、祭り、行事もそれぞれ追っている。塾生と島民との関係を描く鬼ヨウズづくり、ヨウズ上げとヨウズ製作者の語りがダイナミックでもあり意味深い。
 映画の始まりは、見島全景の空撮。同じく空撮された新造高速船「おにようず」の走りも雄々しく魅力的な写りである。幼小中の入学式がまた楽しくもあり、見るものにとって感動と驚きを与え目が離せない。そして見島の人々として、それぞれが「わたしの見島」を語る。その語りは、それぞれの見島を描く場所で語られるのである。後半、高校進学で島を離れなければならない中学生が、それぞれの見島と自分の将来をコメントするシーンは、旅立ちの緊張感と将来の見島、そして自分を含む若者の新たな展望を感じるさせる。実際この撮影現場では、担当の先生方に感動の涙を与えた。画面の流れの効果では、春4月からの見島風景も組込まれ、時間の経過と流れが心和ませる。
 映画制作にあたり、「CINEMA塾」発足からテーマであった映画における「ドキュメンタリーとフィクション」。この課題を見事に感じさせる映画でもあり、当然、タイトルの冠「ドキュメンタリー映画・・・」はない。企画、制作、完成、上映等、その組織から、そして人材育成型制作集団が、「CINEMA塾」プログラムを4年間活動させ、支え、映画祭、萩市の行政等との共同体をなし、作り上げる映画「わたしの見島」は日本映画では初めての試みの映画作品でもある。