農業 |
土地の利用状況は、田が224.1ヘクタール(全体の33.6パーセントを占める)、畑が151.2ヘクタール(22.7パーセント)となっている。見島には、島のほぼ中央部を東西に横たわる瀬高(162)三山ヶ中(175)、イクラゲ山(182)という連山があり、島の狭少な総面積(7.85)に対してかなりの起伏がみられるが、そんな地理的条件のもとで、島の人々が広く耕地を開発してきたことはまさに驚異的だと言うほかない。実際に島をすみずみまで歩いてみると、いたるところに棚田があって、人々の苦労が相当なものであったことが想像できるはずだ。 人々が直面した困難は、他にも水の問題がある。見島には川がなく、水田の耕作は、地下水を汲みだすようになる以前までは、天水やわずかな湧水にたよってきた。しかし、水不足が引き起こす問題はかなり深刻だったようで、見島に数々の苦労話を残している。共同負債にまつわる話も、その一つであるが(詳しい状況は「共同負債」の項目を参照)、その問題発生の直接の原因となったのは、明治14年から3年間続いた旱ばつによる凶作がある。従来現金収入に乏しく、貨幣経済に不慣れな農民たちが抱えてしまった借金を島民が一致団結して返済した話は、離島というあらゆる面で不利な条件のもとで生きる人々の、当時の共同体の有り様を如実に表している。また、農民たちは、毎年のように旱害と風害に悩まされ、雨乞と風鎮の祈祷は、古くから島の重要な行事とされてきたという。 それから、全ての離島に共通して言えることだが、運搬の問題がある。必要物資の仕入れ時と、作物を流通機構にのせるための出荷時の船賃の問題はもちろんのこと、運ぶ物によっては(例えば、花など、特に暑い時期)、運搬中に商品価値を失ってしまいかねないし、船が欠航すれば、出入荷が遅れてしまうということにもなるわけだ。 このように、見島で農業を営み、経済的に競争力をもつ商品をつくろうとすると、さまざまな問題が生じてくる。しかし、上記に述べた共同負債の時のように、島の農業の有り様には、一人では解決不能な問題を、共同で解決していこうとする精神が見られる。 以下、農業を項目別に分けて、それぞれの現状を具体的にみていくことにしよう。 |
水稲 |
また、農家の人々は、見島の気候条件に合わせて繰り返し品種改良を試みたり、昭和28年頃からは早期栽培を開始するなど、努力を惜しまなかった。 旱害対策として、ボーリングによる地下水の汲み出し(注1)を開始したのは、昭和43年の旱害の後のことで、それは山口県で初めての試みだった。それまで、幾度となく、旱害に悩まされ続けてきたことを考えると、その時の農家の人々の喜びは、いかほどのものであっただろうと想像する。 昭和56年には、ライスセンターが完成(注2)。出荷までの作業が効率的よく行われる仕組みになった。各農家で稲刈りを済ませた後に、米は籾の状態でライスセンターに持ち込まれるわけだが、それを乾燥させた後、籾摺り機にかけて玄米の状態にするまでの作業をライスセンターが担う。ライスセンターが出来る以前は、各自の家で米を乾燥させ、農協が共同で所有していた籾摺り機の順番が回ってくるのを待って籾摺りをしていたため(注3)、出荷までにある程度の日数を要していたが、現在は、稲刈りの2〜3日後には出荷できることになっている。 見島は、あらゆる悪条件を克服して、現在、年間約6,000俵もの米を生産し、そのうち約3,500俵を出荷している。「見島米」ブランドを確立するまでに、農家の人々が試行錯誤を繰り返したその軌跡は、まさに彼らの忍耐強さを物語っている。 |
キュウリ |
見島で商品としての作物栽培を行うときには、不利になる地理的条件を考慮しなければならない。たとえば、白菜などの葉ものは、出荷したあとに運搬時間がかかりすぎてしまうと、商品としてだめになってしまう可能性が高いので、見島で栽培するものとしては不向きである。その点、キュウリは心配が少ないだろうということで、現在までに生産量を増やしてきた。 キュウリは、収穫期間中、毎日、宇部や下関に出荷される。各農家でとれたキュウリは、いったん選果場に持ち込まれ、一定の基準で、秀・優・良などの階級(注4)に分けられる。選果作業は、選果場が完成する平成5年以前は、各農家が手選果で行っていたが、そのことについて、実際にキュウリ栽培を行ってきた江水達夫さん(27ページ参照)は、次のように語っている。「昔は50ケースでも100ケースでも市場での取引きが成立したけど、今は一つのロット(単位)が、1,000ですから、量が必要なんです。スーパーと契約するときには、特にそのことが要求されます。だから、見島のキュウリを1,000という単位にまで増やすために、作付け面積を3ヘクタールに増やそうと、キュウリの栽培をしている農家で話し合い、それを実現したんです。しかし、さらに問題は生じました。つまり一軒一軒の農家でとれたキュウリの形がそれぞれ違うので、市場はそれを嫌ったんです。そこで、なんとかして出荷するキュウリの形を統一しようと、キュウリ栽培をやっている人たちでお金を出し合って、さらに国から補助金を出してもらって、選果場を作ったんです」。 しかし、経費の出費を考えると、状況は厳しいと、江水さんはさらに続ける。「1ケースあたり70円、選果料として引かれるんですからね。経費はばかにできないですよね。かりに1,000円で売れるとしますね。すると、その約10パーセントの100円を市場に、0.4パーセントの40円を農協に入れることになっているんです。そして箱代が60円。船の運賃は一箱あたり40円で、陸上の運賃が60円。経費はどこにいてもかかってきますが、やっぱり船の運賃は大きいですね。それに僕らはダンボールを買うときも、見島に入ってくる運賃のかかったものを買うわけでしょう」。 韓国や中国のキュウリが破格値で入ってくる時代にあって、昨年のキュウリには最安値がついたという。農協は、キュウリの作付け面積を、現在の3ヘクタールから5ヘクタールにまで増やすことを奨励しているが、江水さんは「市場で高く売れれば、儲けになるんだけど、値段が高かったら買ってもらえないから、みんな頭を痛めてるよ。僕もキュウリの面積を少し減らして、何か他に植えてみようかなって思ってます」と話す。 |
葉たばこ |
見島では、昭和50年頃に「葉たばこ耕作組合」を結成。現在も、たばこ栽培に従事する農家の人々で組織が運営されている。組合では、実際に共同で行う作業の管理などを行う。例えば同じ萩諸島の大島(注5)では、個人が乾燥機を所有して作業を行うが、見島では共同で使用する乾燥場が島に二ヶ所あり、組合員たちが当番制で、乾燥作業にあたっている。また、育苗も共同で行うなどして、作業の効率を上げる努力がなされている。 現在、葉たばこの栽培を行っている農家は11戸(本村が4戸、宇津が7戸)。その数は年々減少しているという。その理由として「とにかく、芽を摘むことから、乾燥まで、手間ひまがかかるんよ。島に多くの若者たちがいた時代には、家族で一連の作業が出来たけど、労働力が不足している現在、それを自分だけ、または夫婦で担うとなると大変な労働だからね」と人々は口をそろえる。 では、現在もたばこ栽培を続けている農家の人々は、どんな状況を抱えているのだろうか。たばこ栽培を担う人々の平均年齢は55歳で、ほとんどが60代である。なぜ大変な労働であるたばこの栽培を、その年齢の人々が行っているのだろうという疑問を抱いた。そこで、宇津で半農半漁の生活を営み、長年続けてきた稲作だけでなくたばこ栽培を昭和61年に始めたという加藤健助さんに、そのことを伺ってみた。「何よりも老後のことを考えると、年間を通じてまとまった収入の入るものを作っていかんと、苦しゅうなると思ってね。潜りで稼ぐお金は日銭にはなるかもしれんけど、長い目でみたら、残らんもんね。うちらが長生きせんやったら、それでもいいけど、生きとったらお金はいるやろ。それに災害に遭ったときに、たばこは保証がいいんよ(注6)。うちらは半農半漁で、潜りもやって、かなり稼いだ時期もあったんやけど、そのしわよせが来ちょるっちゅう感じがするよ。生活レベルは落せないもんね」と加藤さんは語る。 労働力は年々減少するなか、作業の効率を上げる共同作業が繰り返されているが、加藤さんのように高齢になると、深夜に行われる乾燥作業の当番を務めるのは辛いはずだ。農協の関係者は、そのような状況に対して「高齢化していく農家の人々の作業を代行する、作業管理組合のようなものが、今後の見島には必要になるではないでしょうか。そのことも検討していかねばなりませんね」と語った。 |
見島牛 |
毛色は黒褐色。体高は雌で約1.17メートル、雄で約1.25メートルと小柄だ。晩熟で、満3歳でようやく繁殖年齢に達する。性質はおとなしく、行動はすばやくて、力強い。その上、粗食にも耐える牛は、見島の生活に欠かせない存在だった。 かつて、その牛たちの働きが、農家の繁栄を左右していた時代があった。天水を頼りに稲作を行っていた見島では、かつては雨をひたすら待ち、より多くの水を確保するために各農家が競って田を耕していた。勝負を分けたのが、その家の牛の力量だった。見島牛保存会の現在の会長である多田健介さん(18ページ参照)は、今から50年前を振り返り、「朝早いうちから牛を出し、刻んだ藁や麦をたっぷりと食べさせたんよ。牛が働かんと、米が作れんからのう」と言う。また、山根タケさん(21ページ参照)も、「昔は、『ボウボウ、ジョウジョウ(右へ曲がれ、左へ曲がれの意)』という牛ことばがあってね。私らが子供の頃は、そんな言葉を使って、草を食べさせるために、牛を引っ張って連れて行きよったんよ」と語った。 宇津在住の吉村恒満さん(31ページ参照)は、「うちらが小さいときには、牛が一件の家に、4頭か5頭おったよ。観音平の広場で草を食べさせるために、小学校くらいの子供が牛を連れて行きよったんやけど、そのお礼に、農家の人たちが『コウシン講』と呼ばれる集まりを開きよったんよ。ごちそうをこさえて、子供を招待してね。夜は輪になって、歌を歌ったり、芸をしたりしよったよ」と言い、昔を懐かしんだ。 しかし、昭和35年以降、人々と牛の関係は一変してしまった。耕耘機が導入されたことにより、昭和34年までは500頭いた牛が激減し始めたのだった。昭和42年の時点で、牛の数は144頭になり、このままでは見島牛が絶滅してしまうのではと懸念した農家の人々の手により、見島牛保存会が発足された。昭和50年代には31頭まで減少したが、保存会のメンバーたちの努力により、現在は雌が80頭、雄が7頭(飼育農家数は7戸)を数えるまでになっている。 見島牛の飼育費用だが、文化庁から助成金として、繁殖雌牛一頭あたり年間15万円、種牡牛には60万円が現金で支払われている(注7)。その対象となっているのは、現在80頭の雌と2頭の雄だけだ。種牡牛に対しては、種の純血性を守るために、体形・血統・精液などを対象に厳しい審査を行い、認定する牛が決定される。雄の認定数が極端に少ないことに対して、多田健介さんは「見島牛の保存会としては、2頭しか補助金が出ないんですいね。種牡牛は雌を飼うのとは違うんですよ。だから補助金も多いわけね。かりに認定された種牡牛が、役目を果たす前に死んでしまったとしても、凍結精液(注8)があるから、自分が種をつけようと思えばできるんですよ」と説明する。 今年は、見島牛が天然記念物に認定されて70周年を迎える。多田健介さんは、「見島牛の保存と利用」をテーマに掲げ、見島牛を島の宝にしたいと、その抱負を語る。「今、見島牛を飼っているのは7戸しかいないけど、7戸の農家が牛を囲って儲かる(注9)ということになれば、また牛を飼う農家もでてきますよ。今の時代の農家は、お米では儲からんのですからね。米価は、20数年前と同じなんですよ。だから、お米で儲からん今の現象をなにかでカバーしなければ農家は生きていかれんわね。また、今は減反政策で、転作を要求されるとるけど、もし何も植えずにそのまま放っておくと田んぼが荒れてしまうけんね。だからその農地を活用して、そこに牧作をして省力化で牛を囲えるような経営にすれば、牛を飼う農家も出てくるんやないやろうか。お金をかけずに飼えて、売るときには収益が大きいわけだからね。今年は萩の木間(こま)に「萩・見蘭牧場」が出来る予定で、去勢した見島牛もそこへ持っていって飼育したらいいんじゃないかという話を進めているところです。今年は百姓の『姓』の字が、『笑』という字になるように、将来に向けての方向付けをやらにゃいけんと思っています」。 |
(注1) | 現在、12ヶ所から、地下水が汲み上げられるようになっている。 |
(注2) | 昭和56年度の地域農政特別対策整備事業として農協が取り組んだもの。 |
(注3) | 個人で籾摺り機を所有している数軒の農家は、個人でその籾摺り作業を行っていた。また、籾摺り機を持たない農家は、作業を行うのに、農協の機械を借りる順番を待たなければならなかった。人々は、親戚や近所の人たちと互い作業を手伝い合って籾摺りを行った。それを「移動籾摺り」と呼ぶ。 |
(注4) | キュウリは、太さ・長さ・重さ・曲がり具合などによって、秀・優・良からさらに何段階にも分けて階級が決められている。 |
(注5) | 大島は、人口1,231人、面積3.44で、本土萩市から北方7.9に位置する。葉たばこの栽培が農業の中心。 |
(注6) | 災害時には、日本たばこ産業から援助金が出ることになっている。 |
(注7) | 15年くらい前までは、飼料などが現物支給されていた。 |
(注8) | 見島牛の精液は冷凍で永久保存されている。その精液が雌牛に注入される場合は、近親での交配をさけるために、10年前の精液が用いられるなどの工夫がなされる。 |
(注9) | 見島にいる牛の数が100頭を越えた場合には、肉牛として売りに出してよいとされている。 |
【文・田中美和子】 |