基地と人々との生活
 
米軍と見島の人々
 
 昭和25年8月11日、米軍は現在の航空自衛隊駐屯地であるイクラゲ山にレーダー監視所をオープンし、見島での駐留を開始した。米軍がまず最初に始めたのは、自分たちが持ち込んだ車を走らせるために大きな道路を作ることだった。当時島にあった道路の幅は畳を縦にしたくらいのもので、両方から牛を連れて来た場合はどちらかが横道に入らなければやり過ごせなかったという。そこで米軍はショベルカーを使って大々的に工事を行ない、あっという間に大きな道路を作った。これには島の人々も驚き、それを見た多田宮司さんをして「これじゃあ日本が戦争に敗けるのも無理ない」と言わしめたほどだ。しかしこれには続きがあった。自分たちの作業を終えた米兵が、今度は島民が頻繁に利用する細くて不便な山道を工事し始めたのだ。その他にも溜め池を掘ってくれたり、農作業に支障をきたすような岩が田んぼのそばにあった場合でも、何本かのビールを持って頼みにいけば快く解体作業を引き受けてくれたという。「宇津」にすむ山富正助さんもその依頼者の一人で、「そりゃあすごかったよ。何しろ爆薬を仕掛けて粉々にするんじゃから。米兵が遠くからボタンを押したら、2メートルくらいの岩がぽっかりなくなってね。あれには正直言ってびっくりしました」と当時の様子を語ってくれた。さらに、米軍は経済的な面でも島を潤した。米軍が島に来る時、ほとんどの兵士は本土から「パンパン」と呼ばれる売春婦を自分の愛人として連れてきていた。ところが島にはそれほど多くの旅館や施設がなく、だからと言って軍の宿舎に連れていくわけにもいかない。そこで米兵は島民と交渉してその家の一部を借り、そこに愛人を住まわせたのだ。最初はそれを嫌がっていた多くの島民も、実際に部屋を貸した人から話を聞くと目の色を変えて部屋を提供するようになった。中には、わざわざ家を増築してまで貸した人もいたらしい。その理由は、愛人のところへ来るたびに米兵が多くの食料品や缶づめを家主に置いていったからだ。当時は戦後の食糧難時代で、見島においてもそれは深刻な問題となっていた。ところが米兵に部屋を貸せば家賃はもちろんのこと、貴重な食料までもが手に入るではないか。つまりはそういうことである。また、米軍は基地の雑用員としてたくさんの島民を雇い入れ、かなり多くの賃金を支払ってくれたそうだ。
 
 
米軍と自衛隊
 
 昭和30年から35年の間、見島には米軍と自衛隊が同時に存在していた。昭和30年2月、見島に航空自衛隊(注1)が配備されたが、その頃の隊員数はまだ10人以下だったという。すでにこの時点から米軍の撤収作業は始まっていたのだが、結果的には完全に切り替わるのに5年の歳月を必要とした。この年から米軍兵士の数はどんどん減り続け、最後のほうでは数人の幹部が残務整理のために残っているだけだった。そして、昭和35年に米軍はイクラゲ山の接収を解除し、同年6月に島から一人残らず引き上げていったのである。それまでの5年間、米軍と自衛隊は別々の基地に別れていたわけではない。わかりやすく言えば、米軍の使用していた基地に自衛隊が転がり込んできたのだ。だから、同じ施設で一緒に勤務をしていた。もちろんレーダーも現在の純国産とは違い、米国産を使用して任務にあたっていたのである。ただし、当時このような現象は全国各地で見られ、見島だけが特殊な例だったわけではない。
 
 
自衛隊と見島の人々
 
 見島の人口は現在1,292人(平成9年度・見島の概要より)で、そのうち255人が自衛隊員とその家族だ。単純に計算すると、島民の5人に1人は自衛隊関係者だということになる。両者の関係はとても良好で、自衛隊の行事(注2)や島の伝統行事には両者とも積極的に参加している。その他にも、スポーツの好きな隊員が自主的にバレーや剣道や空手を島の子供たちに体育館で教えたりしているという。
 見島における自衛隊の主な任務を一言で表すと、情報収集である。日露戦争時の海軍望楼、太平洋戦争時の見張所、終戦後の米軍レーダー監視所、そして現在の自衛隊通信基地にいたるまで、いずれも戦略的・国防的重要性から見島という地点を選んだのだった。自衛隊基地は全国の様々な場所に存在し、基地に対して逆風の吹く地域も少なくないが、見島の場合は軍事基地というよりも通信施設に近く、例えば沖縄のような基地に対する住民側の反発は全くない。しかし、中国・北朝鮮・旧ソ連といった日本海側の国々を意識したときに、いったい誰が見島は安全だと断言できるのだろうか。ひとたび戦争が起これば、軍事基地であろうが通信基地であろうが真っ先に敵から狙われることには変わりない。佐々木郡司令(注3)が語った以下の二つの言葉からは、自衛隊と見島の複雑な関係が少しだけ見えてくる。「朝鮮戦争が勃発した時、見島の自衛隊の緊張感は極めて高かったんです。なにしろ、あの時の見島はまさに最前線だったからね」「このさき見島が無人島になったとしても、自衛隊基地は絶対に必要です」。
 
(注1) 航空自衛隊:現在の正式名称は、西部航空警戒管制団第十七警戒郡。
(注2) 自衛隊行事:主要なもので、春の花見・秋の観月祭・自衛隊創設記念がある。
(注3) 佐々木郡司令:航空自衛隊第十七警戒郡司令(兼)見島分屯基地司令二等空佐・佐々木潔さん
【文・末武和之】

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