島おこし会
 
 島おこし会の7年ごしの悲願であった高速船「おにようず」号(注1)が、今年4月1日から就航した。人口が減って活気が失われつつある見島を、「すぐに昔のような活気のある島になると思わないけど、島おこし会がなんとか食いしばってやってみようやないか」。見島を愛する人たちによって、島おこし会は結成された。そして、高速船就航を機に、今まで以上に見島に観光客を呼び込もうと考えている。
 

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 山口県では、日本海側と瀬戸内海側に、見島を始め22の離島が点在している。それらの島々の代表が山口県離島青年推進連絡協議会(以下「協議会」と略す)で、離島の問題について議論を重ねている。7年前に協議会の会長をしていた現・島おこし会会長多田一馬さん(20ページ参照)は、そこで幅広く離島の問題を考え、「高速船なくして見島の将来はない。高速船によって見島を変えよう」と決意した。多田一馬さんが中心となり、協議会の見島代表5、6名と島おこし会を作ることになった。まず意欲のある若者が加わり、次に婦人会、漁協や農協の青壮年部等の見島の若い人々による組織は全て参加し、さらに全ての旅館が会員になった。
 正式な発足式は平成4年の3月に、当時の萩市長や県の地域振興課からも参加して盛大に行われた。そして、5月の連休に初めて「島開き」イベントを行った。「島民の意識を改革することが、我々島おこし会の狙いだったんですよ。農業、漁業が低迷する中で、もう一つ観光産業によって島が発展し、少しでも地元の所得アップにつながればいいと」いう考えから、物産品の販売や、昔から伝わる鬼の舞を披露したりした。次に7月は「海の祭典」を開催し、ウィンドサーフィン大会や演芸大会を企画した。この時は寄付金80万円プラス萩市から補助金50万円が出ていたが、優勝者に豪華賞品をだすなどしたので100万円の赤字になってしまった。金融機関から100万円を安い利息で借りたとしても最終的には返済しなくてはいけないので、メンバーが集まり話し合いがもたれた。「最初に副会長が、『どねんやろう、お互いに10万円ずつ出そうやないか』と言いました。それなら『会長として30万円出しましょう』と。すると副会長さんが『会長さんが30万円出すなら私も30万円出します』と。それで60万円。後は島おこし会の皆が10万円とか5万円とか出しましょうと。そういうかっこでなんとか100万円を作りました。でも皆は、島おこし会に寄付という気持ちでいてくれてます。いつの日か、島おこし会が儲かるようになったら返そうと思っています」と熱く多田一馬氏は語ってくれた。これ以来、ますます島おこし会の結束が強まり、毎年たくさんのイベントを行っている。
 現在、高速船「おにようず」号は最初の目標以上に多くの人を運搬している。「当時の知事が、山口県内のどこの地域でも1時間で行けるように、県土一時間構想をうちだしていたんですよ。当時は、見島・萩間が1時間50分もかかるから、知事さんに提言してその構想にあやかりたいと。1時間以内で萩に渡れば、少しは本土と近くなるから、是非実現して頂きたいと」。高速船が就航する以前の船は、日本海の荒波の中を長時間走るので、船酔いをする人が多かった。また、本土と数十キロも離れている他の島では、高速船が走っているのは当たり前になっていた。そこで、スピードがあり、しかも今まで通り貨物が運べて、揺れが少ない船をということで、今回の高速船「おにようず」号になった。「でもねえ、作ってくれって言い続けて7年かかったんですよ。長いですいね。運動を始めて、やっと5年目に新船建造の計画の話が聞こえたから、まあ辛抱しようかいなあと思ってね」。島おこし会としてはこれから、「おにようず」号を活用して島民の所得アップにつなげたいと考えている。次の目標としては、現在の1時間10分の半分の35分で萩まで行ける船の実現を考えている。「うちらの目標は超高速船。今のは準高速船。超高速船で高校生を通わせようという考えがある。今は見島に高校がないから、親と15才で別れるわけでしょう。子供と出来るだけ暮らせる時間を長くしたい。高校を卒業するまで一緒に暮らせたら」と小学一年生の息子をもつ江水達夫さんは言葉を強めた。
 「島を愛する気持ちとか、見島を好きだという感覚が少なくなったんよね」。しかし、会長の多田一馬さんは、「見島を愛して、見島のためにこれからも頑張っていきたいと思いますね。いい島だと思いますしね。私は守って行きたいし、頑張ります」。島おこし会がある限り、見島は発展しつづけるだろう。
 
(注1) 見島〜萩間の定期船の歴史:大正以前は風で走る帆船が就航していた。風待ちで、何日も船の中で過ごすことがしばしばあった。大正2年にようやく石油発動機船が就航する。「海がひとたび荒れたら船は揺れて、腹の中のものはみんなゲロゲロと吐き出したものですわ」(「地獄島とロシア水兵」椋鳩十著より抜粋)。昭和34年に「見島丸」が二日か三日に一度の不定期で就航し、見島〜萩間が2時間半になる。「立派な船が出来たと喜び、村をあげてお祭り騒ぎしたものです。一体どんな大きな船だと思います?たった100トン。100トンの船で喜んだのです。それ以前の船はどんなに貧弱だったが想像がおつきでしょう。萩の港から見島まで45キロあるんですよ。海は日本海の荒波。季節風の頃になると100トンぐらいの船は木の葉が海に浮かんでいるようなもので、無茶苦茶にもみくたにされたものです」(同じく「地獄島とロシア水兵」椋鳩十著より抜粋)。昭和46年に「たちばな」が就航し、見島〜萩間は2時間になる。昭和52年に「はぎ」が就航し、見島〜萩間が1時間50分になる。昭和61年に「たちばな2」が就航する。この頃になるとかなり近代化された船が登場してくるが、船の揺れはあいかわらずひどかった。船内には、到る箇所に汚物用のバケツがおいてあり、介護員も乗船していた。それが今年の3月まで続いていた。平成10年4月に準高速船「おにようず」号が就航し、見島〜萩間が1時間10分になる。現在の船は、「コンピューター制御で《ゆれ》はなし」、「高速エンジン」、「耐触軽量アルミ合金」である。
【文・岡本和大】

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