明治18年の2月、見島では前年の県との協議結果を受け、島内全ての田畑を担保にして銀行から6年の期限で金を借り入れ、さらに萩の久保田庄治郎から一時借りたお金と負債者一同の積立金を加えて、それまで島外の多くの金貸しから借りていたお金をとりあえず全額返済した。しかし、一言に負債者といってもそのほとんどは直接金を借りておらず、連帯保証人となったために返済を余儀なくされた人々ばかりである。やがて「自分が金を借りてないのになんで払う必要があるのか」という考えが島民の間に広がり、その後の銀行等への返済は不作を理由にかなりいいかげんなものとなっていった。それからは借金の返済期日が迫るたびにまた別の金貸しから金を借りて返済する、という泥沼が幾度となく繰り返され、利子を加えた借金総額は雪だるま式に増えていった。そんな見島の窮状を見るに見かねた県はなんとかして見島を再生させるべく、他の村で借財返済の実績がある厚東毅一郡書記を明治32年に共同負債返済の責任者として島へ派遣した。「それまでにも共同負債の監督責任者として郡書記はいたんですが、きちんとした返済指導はやってないんです。厚東さんが来てから本腰にやりだしたんですよ。だから、厚東さんが来て強力に指導してなかったら、絶対に返済はできてなかったと思いますよ」(長谷川忠也さん/本村在住)という言葉どおり、厚東書記は島へ渡るとさっそく責任者を集めて節倹条目(注3)という厳しい掟を定めるとともに、これまでに破産した者以外は所有している田畑の地価に応じて借金を負担させることにした。その結果、これまで14年かかっても返せなかった莫大な借金を、12年後の明治44年には全額返済することができたのである。しかし、その12年間の島民の苦しみは並大抵のもではなく、当時の様子は現在も語り継がれている。「うちの主人がよく話してましたけど、主人は明治35年に生まれましたから一番苦しかった時期を経験しているんですよね。たとえばお米を洗ったら白い磨ぎ汁ができるでしょう。その汁を練って、煮て、食べたって言うの」(弘中ミネさん/現在83歳。本村在住。)「私の家も連帯責任者でしたからね、明治30年頃で毎年500円(当時の500円は現在の約1,000万円に相当する)以上返済してました。家が建つ金額です。代用教員の月給が7円(注4)の時代ですからね」(長谷川忠也さん)この他にも見島の農家では共同負債に関する様々な話が伝わっており、ここで紹介したのはほんの一部に過ぎない。
当時の見島を今に伝える「共同一致の歌」は、共同負債のような無知から来る悲劇を二度と繰り返させないために作られたという。その歌を作詞した人物が自身の祖父にあたる多田守邦さん(24ページ参照)はこう語る。「共同負債の苦しみを、見島の人々の気持ちに今も生きさせないといけない。あれは絶対に忘れちゃいかん。こういうことがあったんだぞということを、この先も伝えていかなければと思っています」。
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