「CINEMA塾」テキスト  
 
盆踊り
 
 先祖の霊を慰めるための行事である盆踊りは、「精霊踊り」とも呼ばれる。この盆踊りが、いつから見島で行われるようになったかは、はっきりしていない。昔は人家があるところから寺山という墓地のある場所(注1)まで踊り、そこから降りた後に、高張提灯が立てられた新盆の家の庭先で盆踊りが行われていた。人々は時間の経つのを忘れ、明け方になるまで夜を徹して踊り続けた。それが時代を経て、地区の世話役である若者頭(注2)が段取りを行い、4地区(浦、東、西、宇津)に分かれて開催されるようになり、徐々に余興化してきたという。
 見島の盆踊りでなにより特徴的なことは、参加者の服装である。男女共に、派手な柄のしぼりの振り袖を着用し、袂に鈴をつけることもある。そして、帯には白いさらしが用いられ、その上に赤いたらしが垂らされる。さらに、1メートル四方ぐらいの白い布で顔を覆い隠して踊る様相は独特で、踊る男女が自分の身元を隠して朝まで踊り明かすというこの催しが、開放的な雰囲気のもとに行われていたことが想像できる。
 盆踊りが行われる広場には、やぐらが立てられ、口説きを行う人が登る。「那須の与一」・「いろは口説き」・「一畑口説き」(注3)などが主な口説きで、人々はやぐらの周囲に輪になり、口説きに合わせてゆっくりと踊る。ゆらゆらと長い袂を揺らして踊る姿が幽霊に似ているところから、「宇津」では、「幽霊踊り」とも呼んでいる。提灯に照らされる広場に夜が更けるとともに集まってくる人々。夜空を突き抜ける太鼓の音や、口説きに合わせて「あ、よいよい」「せえよよせ、あらせ、こらせ」と挿入される囃しの声が、盆踊りに耽る人々を包み込みように響きわたり、その盛り上がりは明け方まで衰えなかったという。
 戦前から島の歴史を見守り続けてきた金子利光さんは、数十年前の盛り上がりを、私たちにこう語って聞かせてくれた。「もう終わりにします、ってお世話する人が言っても、終わりにならないくらいに弾むことが、ずっと過去にはあったんです。あるとき、通り雨が夜中にきたことがあったんですが、それでも踊りが止まらないんですね。で、本土から来た人が、『通り雨島の踊りは衰えず』という句を読んだんです。スコールがきても、太鼓をたたく人も口説く人も踊る人も、ぱっと屋根の下なんかに入らないんですよ。踊り続けて、通り雨が過ぎても、濡れたままで朝まで踊っていたんです」。参加者の人数も、今と比べものにならないくらい大勢の人がいたと、島の多くの老人たちは口をそろえる。一重では踊りきれず、二重にも三重にも輪ができ、かなりの賑やかさだったらしい。
 口説きについては、「昔の人は、どの唄も記憶していますね。でも私たちは唄を覚えてないので、やぐらの上に用意してある印刷物を見ながら唄ってるんです。なかな覚えれないんですね。昔はおじいちゃんとかおばあちゃんが、普段から子供にこうやって口説くのよって聞かせて覚えさせたものです」と、50代半ばの左野みどりさんは言う。たしかに、昔は口説きを知らないとバカにされるというくらい、ほとんどの人たちが知っていたのだと、中年層の多くが異口同音に語った。
 また、男女が身にまとう着物は、各家庭で踊り専用に作られるもので、それぞれの家の特色があるという。その着物や白い布については、多田守邦さんから聞いたこんなエピソードがある。「白い布を被っているから、他の人は(その人が誰なのか)分からんわけでしょう。だから、(目当ての女性の)着物の柄を覚えておくんですよ。あれはどこの家の着物かをね。その家独特の模様を覚えとけば、あそこの娘だってことは分かるでしょ。そして、チャンスを作るんですよ」。
また、金子さんは、「私の同級生は、着物を交換して踊ったりしてたようです。自分が誰であるかを気づかれないようにね。とにかく、盆踊りは、逢い引きには絶好のチャンスでしたね。まあ、手を握るかキスぐらいでしょうけど」と語った。既婚・未婚にかかわらず、若い男女にとって、盆踊りの開催される夜が開放的な出会いの場であったことは間違いないようだ。
 もちろん、島外に暮らし、盆休みに帰省する現代の若者たちにとっても、盆踊りが楽しみな行事であることは言うまでもない。最近の盆踊りの様子を訊ねると、左野みどりさんは、「若い方は、アップテンポな踊りを好みますからね。昔のようなゆったりとした踊りに合わせた口説き方じゃ、踊り手がぐっと減ってしまうという状況です。服装にしても、浴衣は着てるけど、顔を出したまま踊るとか。それこそジーパンをはいたまま踊ってる人も多いですね。私たちの年ぐらいじゃないと、顔を隠しては踊らないと思います。それに昔は白い足袋をはいて、そして草履をはいて踊ってましたけど、今の若い人は、ツッカケやゴム草履で踊ってますから」と答えた。
 男女が顔を隠すということで成り立っていた駆け引きを、若いころには楽しんだものだと語った多田守邦さんは、現在の状況を「今は、案内状の中に一項目『白い布を被って下さい』というお願いをわざわざ入れているんです。寂しいことですよ。それを被るのがいいんだけどねえ」と語り、寂しそうな表情をみせた。金子さんも「今の子たちの踊りは、テンポが合うだけで、やぶれかぶれという感じですね。本来の仏の供養という感じは全く無く、一種の芸能になっていますね」と語った。
 また、「本村」の3地区(浦・東・西)で行われる盆踊りとは異なり、宇津地区では、本番の盆踊りが始まる前に「エーサ踊り」(注4)が行われている。これは、男性のみが、手をつなぎ輪になった状態で踊るものであるが、この踊りに合わせて唄われる「エーサ口説き」を口説ける人が田畑利一さん(大正4年生まれ、現在83歳。宇津地区の男性のなかでは最高年齢者にあたる)しかいないため、数年後には次の世代に引き継がれることなく無くなってしまうのかという危惧があり(注5)、祭事の後継者問題は、農業・漁業の抱える問題と同様に、見島に大きな影を落としている。「エーサ口説き」を口説ける人がいなくなってしまったら、「エーサ踊り」を踊る機会もなくなる。そのことは、つまり、見島という共同体が解体する方向に向かっていることを意味しているからである。
 
 
(注1) 見島郵便局から吉祥寺に向かい、吉祥寺を通り過ぎて坂道をさらに上に登ると、右手に墓地がある。その行程をさす。
(注2) 若者頭:文字通り、島の若い男たち数人が、順番にこの役割を担い(任期は二年間)、祭事のお世話をしていた。しかし、近年になって順番に回していくだけの数の若い人が島にいないことから、さらに年齢を引き上げて、一度やったものが再度この役割を担っている。そのような事情から、以前は「若者頭」と呼んでいたものが、現在は「祭礼委員」に変わっている。
(注3) 「那須の与一」・「いろは口説き」・「一畑口説き」:口説き、すなわち歌物語で叙事詩的歌謡である。その歌詞は多く浄瑠璃などからとられているが、本土各地のものとあまり差はない。
(注4) 「エーサ踊り」:江戸時代から明治にかけて、宇津は、北前船(北海道や東北・北陸の北国地方の貨物船。北海道から下関までを航海し、各地の港で売買を行った)の寄港地として賑わった。「エーサ踊り」は、風待ちのために船宿に滞在した乗組員たちが宇津の人々に伝えたものだと言われており、本村では行われていない。
(注5) 「エーサ口説き」が若い人に引き継がれないという問題について、口説きの得意な山本健一さん(宇津区在住、現在73歳)は、次のように語った。「『エーサ口説き』は、節回しが難しくて、私らの世代の人間でも、きちんと口説くことは出来んのです。盆踊りの全ての口説きに当てはまることなんですが、『エーサ口説き』の節だけを習ったとしても、実際に踊るときに、輪になって手を振る動作と唄が合わんのですよ。口説きを習うときには、唄を唄だけで習うんじゃなくて、実際に踊っている人のリズムに合わせて練習せんとだめなんです。それから、太鼓や囃子とも合わなければいかんでしょう。きちんと習得するためには、10年、20年という時間をかけることが必要でしょうね」。しかし、現実には、40代、30代、20代と若い世代になるにつれて、島に居着く人の数は激減の一途をたどるばかりで、「エーサ踊り」を担う口説き手は、育ちにくいと言われている。
【文・田中美和子】
 

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