結婚 |
はじめに、昭和39年に発行された見島総合学術調査報告(注1)を紐解いて、今から34年前の様子を振り返っていくことにしよう。当時、見島には、515世帯、2,807名(男性1,460名、女性1,347名/現在の総人口の約2.3倍)が暮らしていた。農業も漁業も盛んで、経済的に潤っていた頃である。その頃の調査によれば、見島の人々は、島内婚をくり返すことで、族縁関係の連帯意識を強めてきたのだとされている。家の血が引き継がれていくことに配慮がはらわれ、助け合う力になる親戚や分家の多いことが喜ばれたらしい。 ただし、島内婚とはいえ、見島の4つの集落(浦区・東区・西区・宇津)はそれぞれにきわめて閉鎖的で、相互間の通婚は少なかったことが指摘されている。その理由のひとつには、労働力を基調とする婚姻的血族関係が集落を支える結合の絆となっていることが挙げられる。実際、漁業集落の「浦」の若衆と、農業集落の「東区」・「西区」の娘の間に、親しい間柄のものが多かったにもかかわらず、結婚にいたらなかったのは、農業集落出身の娘では漁家の仕事ができなかったからだといわれている。漁家では、男が沖から帰宅すると、延縄をくりなおして釣鉤に餌をつけるという作業を女たちに任せた。そのほか、網のつくろいなどをすることもあったが、東区・西区出身の娘たちは、それに慣れていなかったのである。また、東区と西区では、同じ農業集落という共同体的地縁関係から、通婚がみられたという。 各集落が閉鎖的だったことのもう一つの理由として、それぞれの集落に属する人々の生活感情が異なっていたことも考えられる。再び、東区・西区と境を相接している浦区を例に挙げてみよう。東区・西区の人と、浦区の人が、たとえ個人的に親密にしていたとしても、相互間に通婚はみられない。東区・西区から、浦区へ嫁にいく女性がいたとしたら、東区・西区の人からは「与太者(仕事嫌い、怠け者の意)」といわれて軽くみられたからである。また一方で、浦区の人は、農業集落の東区・西区に嫁ぐことについて「(農家の女の働きが、漁家のそれに比べて、相当きびしいことから)泥まみれにはなりとうはない」と言って、東区・西区へ行くのをさげすみ厭う傾向があったという。 さらに、地理的な隔たりもあったのだろうか(注2)、特に、宇津と他の集落との通婚はみられなかったらしい。 このように、婚姻関係で結ばれる血族がきわめて近接した集落内に生活することから、島の社会の重点が婚姻関係におかれるようになっていた。そういうわけで、年ごろの息子や娘をもつ親にとって、結婚の相手を見定めることは重要なことだった。嫁のやりとりは、女親がきめて、男親がくちばしを入れることは許されてなかったらしい。母親は、自分の息子の嫁になる女性をみさだめると、まず親戚の女達に相談し、それで納得を得ると、娘の側の血の濃い親戚の女(娘の伯母など)に頼んで交渉してもらうか、または直接娘の母親に交渉するなどして、下話はほとんど女たちの間で進めらていたのだという。その際、近親結婚であるために、家筋や家柄が妨げになることも少なく、話がおよそ決まると、それぞれの者に正式に話を持ち出す。これも了解を求めるための形式的なもので、その時点で仲人が立てられる。結婚の主役である若者二人に対しても、縁組の話は、この時になってはじめて明らかにされたらしい。昭和42年に、いとこにあたる奥様と結婚された吉村恒満さん(31ページ参照)も、46年に、大家族で知られる多田家に嫁いだ多田美代子さん(御主人は、現在、島おこし会の会長である多田一馬さん/20ページ参照)も、縁談話を聞いたときには、すでに仲人も決まっており、周囲の人が話をすすめるままに結婚したのだと語った。また、昭和50年に、隣に住んでいた幼なじみの御主人と結婚なさった宇津区の山富純子さん(29ページ参照)も、「あの当時は、もらう方(男性の側)が強引に決めて、婚約させてしまうっていう感じでね。話し合いをする余地もなく、裏ではもう結婚が決まっていました」と、当時の様子を振り返っている。 中高年層の方々に話を伺うと、だいたい昭和40年代ごろまでは、本人の意思が尊重されない形での「見合い結婚」が多かったと口をそろえた。しかし、現在58歳で、すでに3人のお孫さんを持つ小畑嘉道さんが「母ちゃんとワシゃあ恋愛結婚よ。漁協につとめとった母ちゃんを5年かけて、ワシがくどいたんやけん」と語るように、若干、恋愛結婚の例もある。 |
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また、結婚式も、かつてのように婚姻的結合社会のあり方を象徴するものとは性格を異にする形で行われるようになった。元来、見島の結婚式は、花婿の家の座敷で、親戚縁者たちを招いて行われてきたものだった。「昔は、お嫁さんが、その家に落ち着くようにという願いを込めて、お婿さんの家で開かれる宴に、てんま船や、いかりなどが持ち込まれたものです。でも、今それをやるとなると手間もお金もかかるから、簡素な式を本土でやる方がいいようです。それに、招待すべき親戚たちも、本土で暮らしている方が多いですからね」と、宇津在住の40代の女性は言った。今から8年前に本土から花嫁を迎えた江水達夫さん(本村在住・農業に従事)は、「僕らは大津郡油谷町というところで式を挙げました。今は、見島同士の結婚式でさえ本土でやるからね。結局、島で式をやると、ぼた餅を作って、前祝いから、結婚式、その後も反省会までやることになるから、3日かかるんですよ。そうすると大変だから、お金で済ませてしまおうということなです」と語った。 では、実際に見島出身の若者たちはどんな将来のビジョンを持ち、結婚を考えているのだろうか。まず、見島出身の女性たちだが、彼女らのほとんどは、島に戻ることを希望していないようだ。その背景に、娘を島の外に出すことを親も希望しているということがある。多くの親たちは、息子に対して、島に戻り家業を継いで欲しいという期待を抱く一方で、娘には島を出て、別の生き方をさせたいと望んでいるのだ。しかも、見島に戻っても、就職先もないという状況で、女性には、島に残る必然性が男性ほどにはないということになる。そしてその結果、本土で一緒に家庭を築く男性(見島出身の男性であることは重要ではない)との結婚に至るケースが大多数となる。実際、娘の結婚に関して、多くの親たちは、自分の娘は見島内に嫁がせたくないと語っている。 また、見島の男性は、父親の家業を継がずに島を出たいという本人の希望通り、大多数が島外で就職し、本土での生活で知りあった女性と結婚している。ただ、親たちは、上記で述べたように、自分の娘を見島内に嫁がせたくないと思うのとは裏腹に、息子に対しては、島に残って、嫁をもらい、家業を継いで欲しい、という願いを抱いている。だが、親たちも複雑な心境だ。なぜなら、下り坂の経済状況を考えたときに、はたして息子に明るい将来を保証してやることができるのだろうかという問題がでてくるからである。島おこし会を結成し、島の活性化のために努力を重ねている中高年の男たちも、実際には自分たちが後継者を持たないという状況だ。 今の若者たちは、全員が高校進学のために15歳で島を出ることになるのだが、その後、再び見島で暮らすために戻っている若者はいないのだろうか。島の人々に訊ねてみると、ただ一人、ほかの同級生たちとは違い、見島に戻り、生活することを自ら希望した青年がいるよ、と教えられた。今年21歳を迎える、佃輝樹君がその人だ。浦区の漁師を父に持つ彼は、「浦の漁師が好きだ」という理由で、周囲の反対を押しきって、高校卒業後見島に戻り、漁師として生きることを選択したという。しかし、漁師になって3年目を迎える今年に入って、彼はこのまま漁師を続けていくかどうかを悩んでいるらしい。つまり、男が漁師としての生活を営むには、それをささえる妻という存在が必要不可欠だ。だが、今の見島には、未婚の若い女性はいない。もし、かりに誰かとめぐりあって結婚し、子供に恵まれたとしても、その子が通う学校にクラスメートはいるのだろうか、等々、将来に不安材料は多い。 これまでにみてきたように、かつて、婚姻的結合が見島という共同体の成り立ちに欠かせなかった時代があった。その後、経済の構造や就学状況の変化とともに、世の中の大部分を占める人々の価値観もがらりと変わり、その結果、見島の嫁不足の問題も生じてきたわけだが、労働力が必要とされる第一次産業を中心に島の人々の暮らしが成り立ってきたことを考えれば、婚姻的結合の有り様と共同体の未来とが、今も昔も変らずに密接に関係していることが分かる。すでに家族が解体されてしまった現在の状況下で、共同体の存続がかかった問題をいかに解決していくかは、決して単純でない。 |
(注1) | 見島総合学術調査報告:山口県教育委員会発行。民族の部は、宮本常一氏が調査員を勤めている。 |
(注2) | 本村と宇津の間には、イクラゲ山などの連山があり、昭和47年に二つの集落を結ぶ県道が開通するまで、互いの交流は、きわめて薄かったといわれている。それ以前にも峠越えをするための道はあったが、舗装されたものではなく、ひとたび雨が降ると、ぬかるみの状態になり、人しか歩くことができなかったという。それに比べて、昭和37年に着手された県道は、道幅も広く、きれいに舗装されていたのでトラックでの行き来も可能になった。 |
【文・田中美和子】 |