和船競漕 |
競漕船の乗員は櫓を漕ぐ押し子(注2)5名、太鼓で櫓(ろ)拍子をとる者1名、舶先で舞う踊り子(注3)1名の合計7名で、個人の能力と年令によって振り分けられる。たとえば、押し子全員のタイミングを上手に合わせる能力が問われる太鼓役は一番年長で船の責任者となる者が務め、方向などを調整する最後尾の押し子は最も技量があって太鼓役の次に年長となる者が務める。浦の漁師さんによれば「全員の呼吸があっていないと速く進まないし、バランスを失って櫓を海に落としてしまう」ので、以前はうまく漕げない押し子に対して太鼓役がばちを投げつけることもあった。和船競漕の具体的な進行は、まず大船頭の合図で選手たちが足早に競漕船のある港の両岸の岸壁へ向かうところから始まる。乗船後は二隻がそれぞれ港の入口の防波堤前まで機動船に引かれ、そこが出発地点となる。岸壁には見物の人々が鈴なり状態で、ゲキを飛ばす者やテープを投げたりする者もいる。船が双方ともゴールの方向に並列した時にスタートの合図があり、住吉神社の御神体を乗せた御乗船が見守る中、両船は岸に向かって漕ぎだす。目指すは海面に浮かべられた竹竿だ。これを先に通過したほうが勝者となる。 二隻の船の乗員を明確に浦の東西地区に分けていた頃は、相互の対抗意識が激しくてレース後はいつも喧嘩がおこり、敗者は同じ地区の人間に顔向けできず陸にあがれなかったそうである。また、現在は港の防波堤から岸に向かって約250mの距離だが、防波堤がなかった頃には距離にして約1,000mもある沖の金島付近からスタートしていたので、岸に上がるとあまりの疲労で倒れたり脱水症状になったりする押し子も大勢いた。 住吉例祭における和船競漕以外の主な行事としては、27日の前日祭や奉納芝居、28日の子供神輿や大祭などがある。これらの祭礼行事全体を取り仕切るのは「大船頭」(注4)と呼ばれる人々であり、その下には各行事の世話係として「若者頭」(注4)がつく。また、和船競漕の東西船にはそれぞれ当家(注5)がつき、押し子の世話などをしている。しかし、最近では若者の減少によって出場者がなかなか集まらず、和船競漕は今存続の危機をむかえている。「例えば、自衛隊に参加してもらうことを考えたりもしておるんです。ただそうすると行事そのものの意味が変わってしまうような気がしてね。それに、島民の反発も少なからずあるでしょうし。行き詰まりですね。そういった危機感を抱きだしたのは若者頭がいなくなった6年前からなんです。これまでも見島の人口は減ってましたけど、若い人がある程度はいましたから。とにかく、このままでは若者頭という制度が続いていかない。なんとか別の方法を考えようということで、祭礼委員と名前を変えて当時60歳くらいだった人にやってもらったんです。やる仕事は若者頭と同じですけど、もう若者じゃないので呼び方は変えました。寂しいかぎりですけど」見島神社の多田宮司さんは、和船競漕の抱える問題についてそう語った。 |
(注1) | 和船競漕:見島では、「押し船」、「押し合い」、「オシクラゴウ」とも言う。 |
(注2) | 昔は当家が押し子を指名していたが、現在では「くじあげ」というくじ引きによって押し子は選ばれる。しかし、若者がほとんどいない現在では毎年同じ人が出場せざるを得ず、「くじあげ」の意味は失われつつある。 |
(注3) | 踊り子:踊り子の衣裳は独自で、ひときわ目をひく。化粧を終えた踊り子は当家で赤の腰巻・腹巻、桃色の長襦袢・腰帯、前掛け、赤のたすきがけ等を着付けの人に着せてもらうが、このような派手な格好は踊り子だけである。これまでは中学を卒業したばかりの年少者がなっていたが、今では該当者を探すのも難しい。 |
(注4) | 大船頭と若者頭:これまでは7・8・9区から大船頭を各一名と若者頭を各二名選出して行事を世話していたが、若者の減少によって若者頭制が存続不可能となり、現在は大船頭を6人制にして運営している。したがって、これまでの住吉例祭では奉納芝居・押し船等を若者頭が世話していたが、今は大船頭がこれら全てを担っている。詳しくは「見島の人々・本村の人々」と「盆踊り」を参照。 |
(注5) | 当家:押し子たちの世話をする係。昭和5年までは、「くじあげ」によって当家となった者の所有する船で競漕を行なっていた。また、当家=船主にとって競漕で勝つことは大変な名誉だったので、選手にご馳走を食べさせ、その一方で必死に練習もさせた。 |
【文・末武和之】 |